今回、AOsuki役員の米田さんを講師に迎え、青森の歴史について学びました。
まず、誰もが疑問に思う八戸や七戸など何故「戸(のへ)」という呼び名なのか?を教えて頂きました。
元々東北には蝦夷(えみし)という住民がいて東北は蝦夷の国だった。当時大和朝廷が蝦夷の討伐を行う為に、征夷大将軍が東北の地を制圧する為に侵攻していたとの事です。
田村麻呂の後の文室綿麻呂(811年)が蝦夷を追討しました。その追討する為に北の地に侵攻する際、戦略拠点として1日行軍約15~20km間隔で1,2,3,4~8、9という事で名づけの要因として挙げられるとの事です。
※参考キーワード 柵戸(きのへ)
・屯田兵の城柵、いちのきのへ、にのきのへ・・・が語源。その後南部藩領時代に糖部群に九部(戸)四門の制の牧場制度ができた。1,2が南門、3,4,5が西門、6,7が北門、8,9が東門、また「へ」は紙伊の「へ」の説も。
青森県誕生の歴史
もともとは斗南藩という下北の方にあった地、弘前藩、黒石藩、七戸藩、八戸藩とそれぞれ別れていた。
廃藩置県により斗南藩が斗南県になり、斗南県小参事「唐澤安任」と八戸県大参事「太田広城」と両名で弘前、黒石、斗南、七戸、八戸、舘の6県合併による新たな弘前県が誕生。
初代県大参事により19日後に県庁を青森に名前も青森県に変更
というのが青森県の誕生の経緯との事です。
勉強会の後は新橋にあるわのみせ
で懇親会を開催しました。